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コラム
「俺とエランと米子の街」

表題作でもあるこのページ「俺とエランと米子の街」では、私の周辺でおこる様々な出来事、「米子の街」の紹介やお薦めスポット、「エラン」や「ロータス」に関するエピソード等を一話完結スタイルで綴ったエッセイ風短編集です。

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No.9 岡村先生
 
 久しぶりに電車に乗った。もちろん伯耆大山駅からである。ふだん仕事で使っている車を、この駅の無料?駐車場に停めておいて、なにくわぬ顔をして切符を買う。仕事の打ち合わせが思ったより早く終わったこともあったが、気まぐれなこの俺は急に思いついて、電車の窓から大山を見たくなったのだ。打ち合わせに使った図面は車の助手席に投げておいて、何も持たぬ身軽なままで電車に乗ったのだ。
 
 それにしても、伯耆大山駅はひと気がまるで無い。夕方の4時頃であれば、近くにある米子商業高校の女の子が一人や二人いても不思議ではないのに、その時はどういう訳か俺ひとりだった。 別にさみしいわけではない。むしろその方が都合が良かった。40代の大人の男であれば、たまにはひとり静かに思索にふける必要もあるのだ。誰もいない駅内は、そういった大人の男を演じようとするこの俺には、まさに好都合と言える。
 電車を待っている間にきょろきょろしたり、イスに腰掛けながら貧乏ゆすりをしたり、あるいはフルムーン旅行のポスターを口を開けたまま眺めていたりしてはいけないのだ。静かに一点を見つめながら、あくまで落ち着き払って電車を待つふんい気を創り出さねばならない。周りに人がいては、彼らの話し声に気をとられてなかなか落ち着くことが出来ない。そういった意味において、その日の伯耆大山駅はまことに良い状況にあったと言えるのだ。
 
さらに良いことに、遠い昔の日と違って、切符を買うのに駅員さんに話しかける必要がなくなっていた。自動発券機である。目的地までの金額を黙って投げ込めば、スイッチひとつで簡単に切符を買うことが出来る。誰が発明したのか知らないが、本当にありがたい事であると心から敬服するのだ。
 30年程前、当時中学生だったこの俺にとって、伯耆大山駅の駅員さんの制服姿がやけにまぶしく美しく見えていた。その頃の俺は、伯備線の溝口駅までの切符を買うときに、ガラス窓越しに、「 溝口まで1枚! 」と、駅員さんに良く伝わるはっきりした声で小銭を渡した。そして、溝口駅までの切符を1枚くれる時の駅員さんのりりしい表情と、そして何よりもその時のかすかな笑顔を感じ取るのが好きだった。
 しかしながら、そうは言っても40代の大人に成長をとげた今の俺は違うのだ。 そうである。むしろ、誰とも話すことなく切符が買えるこの自動発券機の存在は、静かに電車を待つ今の俺のふんい気にぴったりと言えるのだ。 
 その日の俺は、ひと気のない伯耆大山駅で、駅員さんの表情にふれることなく切符を買い、イスに腰掛けてただ静かに伯備線の電車が来るのを待った。中学生のあの頃とは違って、落ち着いた態度でもって思索にふける今の自分を演じていた。

 岡村文一先生との出会いは中学2年生の夏であった。 当時63才の年齢であったと思う。 すでに教職の仕事を退かれていた先生は、溝口駅前に小さな部屋を借りて整骨・整体の治療をやっておられたが、その仕事のかたわら、毎日夕方になると一人溝口中学校に出かけて、中学生に柔道を教えておられたのだ。 自分の身長を5尺3寸( 約160センチ )と言われていたように小柄な人であったが、同時に明治生まれの気骨ある人であった。 その頃の溝口中学校の柔道部は、岡村先生の指導のもとに、鳥取県下において最も強い柔道部に成長していたのだ。 柔道が強くなりたかった当時の俺は、夏休みを契機に溝口中学校に出かけるようになったのだが、このときに岡村先生と初めて出会ったのだった。

 本当に心からのやさしさが伝わってくる先生で、きびしい指導の中にも、生徒の良いところを一番にほめる先生であった。 当時、柔道の基本である受け身すら下手くそだったこの俺が、岡村先生のおかげで本当に柔道が好きになり、柔道を通じて友人もたくさん出来たのであった。 今から思えば、父親のいなかったこの俺が初めて出会った、本当の厳しさと優しさをあわせ持った人であったように思うのだ。 柔道の稽古のないときも、伯耆大山駅から電車に乗って、溝口駅前にある岡村先生の整骨院に通った。 柔道以外にも、岡村先生はいろいろな話をしてくれた。 先生の話を聞くのが好きだったこの俺は、いつも正座をして聞いていたが、その度に先生は、「 柔道の稽古じゃないから足を楽にしろ 」と、笑いながら俺の気持ちをほぐして、さらに話をされるのだった。 その頃から、ときおり先生は右の横腹あたりを押さえて、少しばかりゆがんだ表情で話をされていた。 後で分かった事だったが、そのとき既に先生はがんに侵されていたのだった。

 岡村先生と出会ってから1年後、中学生として最後の柔道の試合は、鳥取市で行なわれた鳥取県中学校柔道大会であった。 中学校生活での最後の試合ということで、この俺も、そして溝口中学校の柔道部員たちも含めて、出場選手全員にかなりの気合いが入った試合となった
岡村先生も、教え子たちの試合を見とどけようと試合場の片隅で観戦しておられたが、結果として、先生の厳しい稽古を受けた溝口中学校柔道部が見事に優勝を果たし、俺のいた箕蚊屋第二中学校は3位であった。 教え子たちの優勝の瞬間に、岡村先生が目がしらを押さえて泣いておられる姿を、この俺は今でもはっきりと覚えている。

年が明けて、俺たちが高校に進学した春に、岡村文一先生はこの世を去った。岡村先生が亡くなって30年近く経った今でも、溝口町はもちろんだが俺の住んでいる米子の街においても、かつての教え子たちによって、岡村先生の柔道さらには岡村先生の心が、次の世代の子供達にしっかりと受け継がれている姿を見ることが出来るのだ。
 柔道の実力はと言えば、先生に教えてもらった程には強くならなかったこの俺も、及ばずながらも何かの役に立てれば、などと思う昨今なのである。