フランスの北部ノルマンディーに滞在した事がある。 40軒ほどの家が立ち並ぶ小さな集落で、広場に面して古い教会が建っていた。お店はひとつだけあって、そこではパンと水が売られていた。 農業国フランスを代表するとも言えるこの地方では、すべてが自給自足であるかのように感じられた。 それこそ大山トムソーヤ牧場ではないが、ひつじ君、やぎ君、そしてにわとり君たちが放し飼いされており、美しい田園風景と共に、目に映るものすべてが何かゆっくりと感じられたものだった。 しばらく借りていた民家も、200年以上前に造られたであろう古い建物で、窓下に停めていたレンタカーのプジョーを除けば、いつも、まるで時間が逆戻りしているかのような不思議な感覚にとらわれていた。 古い屋根瓦、ティンバーフレームの太い柱、れんがにしっくい壁、建物を構成するすべてが、古代より受けつがれたところの本物の材料、素材であった。 ノルマンディーのあちこちを歩き回ったけれども、滞在中、ついに一度も新築の工事現場を目にする事はなかった。
10代の終わり頃から、この島国の大都市はもちろん、多くの地方都市を旅して歩いた。 当時の俺は、生まれ育った米子の街について、あれこれ考えるような事は無かった。 興味の対象は、世界一のマンモス都市東京であり、そして、今だ見知らぬ地方都市であった。 最初の頃は奈良、京都を幾度となく訪れている。 旅行者の多くがそうであるように、若き日の俺もまた、伝統や文化、そして遺産なるものを見聞するあたりから旅を始めているように思うのだ。 恥ずかしい話だが、自分の将来とか人生の目的などと言ったありがたい考えは、当時の俺にはまったく無縁で、何てことはない、ただ若さゆえの溢れんばかりのエネルギー( 性欲、好奇心、そして興味心 )を放出している旅であった。 そして、この島国のあちこちを巡る旅の途上で、俺は、変貌していく地方都市の姿を目の当たりにする事になる。そこには多くの感動があり、そして失望があった。
俺の住んでいる米子の街も、他の地方都市と同じように、その姿を大きく変貌させてきた。 公共の建物はほとんど一新され、道路網も整備された。 また、交通の利便性や円滑化のために新しい道路も誕生して、よく手入れされた美しい緑地帯と共に、素晴らしい環境の変化を見せてくれている。 米子駅前周辺より始まった電柱線の地下埋設工事も、この数年間で着々と進んで、米子の街の中心部は確かにその姿を美しく変えつつあるのだ。 この俺も、このように美しく変化していく米子の街を、心からありがたく見守っている米子市民のひとりなのである。
しかしながら、公共の建物や道路は良いとして、一般の建設物はどうであろうか。 これもまた、他の地方都市と同じように大きな変貌の姿を見せてくれている。 米子の街の中心部のみならず郊外においても、古い建物の解体が進み、さらには田畑は埋められて、新しい商店やビルディングが建設されてきたのだ。 この経済優先の社会において、建物の依頼主の個人的な意向にそって計画され、また、設計士と呼ばれる人によって自由気ままにデザインされた、姿かたちの違う色々な建築物を見ることが出来るようになった。 にぎやかな、本当ににぎやかな街並みとなっている。
色とりどりの屋根や壁、にぎやかに立ち並ぶ派手な看板をみていると、40代とは言え、視力には自信のあったはずのこの俺も、最近では何やら目がチラついて、そろそろ両目をいたわる時期が来たことを実感しているのだ。
この島国では、建築の工事に取りかかる前には、地鎮祭( ぢちんさい )と呼ばれる儀式をとり行なう。 欧米諸国にはこのような習わしはいっさい無くて、まさにこの民族だけの儀式である。 たった1軒の民家を新築するときにも、それこそ巨大なビルディングを新築する場合にも、工事に取りかかる前には、その敷地内に四隅に竹を立てて、神を祭る簡単な祭壇を設ける。 そして、神主( かんぬし )にお願いしてケガレをはらい、土地の神の心を鎮めることで、工事が安全に行なわれるように祈願するのだ。
ところで地鎮祭のときに設ける祭壇には、当然ではあるが、十字架に架けられたイエスの像であるとか、金色に輝く仏像のようなものはいっさい置かれない。 地鎮祭を体験した人なら誰でも知っている事だが、よく磨かれた円い金属の鏡が、祭壇上の目の高さに置かれているだけだ。 これから建物を造ろうとする人は、その鏡の前に立ってお祈りをする事になる。 当然、鏡に自分の顔が映る。 鏡に映し出された自分の顔を見てじっくり考えよ、と言う意味なのだ。 要するに、本当に自分は建物を造るのにふさわしい人間であるのか、鏡に映った自分の顔を見てじっくり考えてみよ、かんがみよ、と勧めているのだ。 鏡( かがみ )の語源はここから始まっている。 まさにこの地鎮祭の儀式において、建物の依頼主はもちろん、建物の設計や工事にたずさわる全ての人々が、神のみまえで自らが裁判官となって自らを律するのだ。
この島国において古代より受け継がれてきたこの儀式は、世界に誇ることの出来る俺たちの素晴らしい文化であると思うのだ。 これから建設にたずさわろうとする人が、地鎮祭の持つその深い意味を理解し、その心を建設工事において実践することによって、結果として、俺たちの住む街が美しく落ち着きのある街に変貌していくことを、俺は心から祈っているのだ。
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